「スピーカー」のむこうに広がる鮮明な音の風景
ごくごくふつうの都会生活をおくっていると、耳にはいってくる音楽のほとんどはスピーカーをとおしたものだ。いま自分がいる、目の届く範囲、直接の空気の振動が届く範囲で楽器の音が発され、それが知らず知らずのうちに耳にはいってくるというようなことは、ほとんど、ない。ラジオでもテレビでも、あるいはオフィス・ビルやデパートでも、音楽はもう、こうした「スピーカー」ごしこそがあたりまえの状態なのだ。そして、スピーカーからの音は、生楽器の音であろうと、電子楽器だろうと、また自然音であろうと、区別はまったくなくなっている。
恩田直幸の『翼』を聴きながら思ったのは、この「音の環境」についてだ。ひとは、このアルバムにある音のほとんどに生活のなかで親しみがあり、馴染んでいる。広がりのあるシンセサイザー=オーケストレーション、うちこみのビート、ベース・ライン、たちあがるピアノの音色。馴染んでいるからこそ、逆に、耳にしていることを忘れてしまったりもする。だから、音楽のながれをじっくりとたどってゆくこともできるし、「サウンド・インテリア」のように何気なく部屋でかけておくこともできる。
だが、ここに急に耳が吸い寄せられるような旋律があらわれてくるのである。まわりのサウンドとほんのちょっとだけ違和があるような、それでいてそれがかえってスパイスとしてしっかり効いているような旋律だ。それが日本や中国の楽器が奏でるものであることは、じきにわかる。尺八、筝、ニ胡――最近でこそ、さまざまな場で目に耳にしたりすることもふえてきた楽器だが、いつでもどこでも親しまれているというものではないかもしれない。それが、スピーカーのむこう、シンセサイザーや西洋楽器と一緒にまじりながら、同時にほんのすこし違ったテイストをだしながら、ひとつの音楽をつくっている。
東洋の楽器による独特の旋律線。ごく自然なかたちでちょっとだけ含まれるノイズ。こうした音色に、息づかいに、聴き手の耳はぐっとフォーカスする。ひとつの風景に浮かびあがる対象。それがあるから、ひとはこの風景に近づいたり遠ざかったりできたりもする。恩田直幸はこうした楽器を使いながらも、無理に「色」を混ぜ合わせたりはしない。1曲にひとつの楽器、ひとつの音色と決めることで、その曲の「色」を他の曲とコントラストをつけてもいる。だから、聴いたあとでも、1曲1曲が、鮮明な音色とイメージとともに、想いかえすことができるのだ。
「スピーカー」のむこうに広がる音の風景。そのなかにさりなげく配置されている焦点となる旋律の音色。このアルバム『翼』のもっともフィットする位置とは、はたして、どこにあるのだろう。
小沼純一
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