私たちはいつから「忙しい」と口にするようになったのだろう。子供の頃、時間はたっぷりあった。一日はとても長く、夏休みは終りがないかのように感じられたものだ。こんもり茂った森。田んぼや小川。幼ななじみの呼び声・・・。風景は美しく脳裏に浮かぶのに、でも、もう戻ることのできないあの時間への郷愁。小宮瑞代が奏でる「ふるさと」を聴いていると、過去の時間に対するなつかしさと、ほの暗い諦めが、心の中で木洩れ日のようにちらちらと揺れはじめる。
このCDの中で、小宮が演奏している楽器は、伝統的な十三絃から現代のソロ楽器として進化した二十五絃の筝。ゆるやかな丘陵を思わせる桐の胴の上に、絃を支える琴柱が美しく連なるその姿は、筝の伝統を私たちに届け、さらに、新しい音の世界へといざなう懸け橋のようにも思える。筝は清々しい響きに溢れているが、ふと心にひっかかってくる不思議な音もさまざまに紡ぎだす。耳を澄ませてみよう。
たとえば、象牙の爪が絃を弾く時に生まれる、かすかにきしむような音。絃を押して音程をかえる「押し手」という伝統的な奏法による、微妙な音のゆらめき・・・。筝ならではのこうした音の陰影が、ここに収められたすべての曲の中に、何かの粒子のようにちりばめられ、ひっそりとはじけている。子供を寝かしつけながら自分自身の辛い境遇を嘆く言葉を歌っていた昔の人々のつぶやきや吐息。蛍のはかなくか細い光の筋。さわさわと笹原を吹き抜ける風。筝の音色は、人の心や自然の手触りといったものを染み込ませた音色なのだ。
音楽に耳を傾けながら、ゆっくりと記憶の束をほぐし、心の中に醸された遠い時間をみつめるひととき・・・。「ふるさと」はそうした時間の中に息づいているのかもしれない。これは時間の豊かさを見失った時代を生きるおとなのための、LULLABY。それでは、しずかに、おやすみなさい。